「永和」の歴史 (河内亭 九里丸)

江戸時代から続いた「もめ事」が一件落着
 東大阪市の地名はずいぶんと古いものが多く、万葉集や古事記に書かれているような古い古い地名もあります。そんな中で私のふるさとである「永和」は割と新しい地名です。
 お話は江戸時代にさかのぼります。天保の頃といいますから今から170年ほど前になります。このあたりでは荒川村が大きな村だったそうで、三ノ瀬、長堂、横沼といった枝郷(しごう)を従えていました。枝郷なんて言葉は今日では死語(つまらぬ洒落)でしょうが、子分格の村というような意味でしょうか。正式には荒川村三ノ瀬分、長堂分、横沼分という名で記録されています。いつの時代にも他人の子分というのはおもしろくないようでして、天保年間から幾度となく「お上」に対し独立分村の請い願いが出されていました。荒川村の内部では独立を巡ってかれこれ30年以上も「いさかい」が続いていたそうです。
そのうちに明治維新で世の中が変わってもまだ、もめ続けていました。
 ところで明治の初期の廃藩置県は試行錯誤の繰り返しだったらしく、一時このあたりは堺県の管轄でした。現在の大阪府と奈良県の北部まで含めた大きな県だったそうです。
 その堺県の、ときの県令(今の知事さんですな)は「税所 篤」というお方で、この方の英断で長らく続いた三村のもめ事が一件落着しました。明治6年11月27日のおふれによって三ノ瀬村、長堂村、横沼村の三村が、めでたく荒川村から独立したのでありました。

永和(ながにご)村の誕生

 この税所さんはなかなか粋なお方のようで、この三村独立の際に横沼村の北部の集落を新たに一村として興すよう命じられました。その命名がふるっていました。「村どうしが長い間いがみ合っていたことは水に流して、これからは永く平和に暮らしなさいよ」という願いを込めて、新しい村の名を永和(ながにご)村と名付けはったんです。これが永和のはじまりです。(駅前に名付け親の税所さんの銅像でも建てなあきまへんな。)その後は布施村に合併されて字名として名を残すことになります。

ひとの道がやってきた

 大正3年には大阪電気軌道(大軌とよんでた今の近鉄です)の路線が永和村の北の端を通りましたが、そのころにはまだ駅もなく旧街道沿いの集落のまわりにのどかな田園が広がっている田舎でした。もともと鉄道の目的が奈良や菖蒲池などへの観光客の輸送をねらったものでしたから今のようにいくつも駅が出来るのはずっと後のことです。
 この永和が一躍脚光を浴びるのは、昭和初年に大発展を遂げた新興宗教の「ひとのみち」(今のPL教団)が、この地に本部を置いたことでした。昭和3年3月のことでした。
 昭和9年には、大阪軌道の線路沿いに鉄筋コンクリート造の巨大な本殿が建設されます。千畳敷の大広間や日本一の大食堂を擁する本殿の外、寄宿舎、小学校、幹部の住宅が建ち並び、参拝者は毎日数百名を数えたと言いますからすごい賑わいですなア。
 このため、大軌は昭和11年に布施と小阪の間に「人ノ道」駅を作りました。で、毎日早朝だけ参詣者のために改札業務をすることになりました。8月1日のことです。これが現在の永和駅の前身です。
 公称信者数が100万人、警察調べでも80万人の信者を擁する教団の総本山として賑わった永和ですが、昭和12年4月5日教祖御木徳一が不敬罪で起訴され、幹部十数人が検挙されるという事件が起こります。そして、同月12日には「公安を害し風紀を紊乱するおそれがあり、安寧秩序を保持するため」てな難しい理由で解散を命じられました。解散させられてなかったら今頃PLの花火は永和の夜空に上がっていたかも知れませんな。

布施の丸の内誕生

 せっかく出来た「人ノ道」駅も4月22日には営業休止となりました。
 また寂れた田舎に逆戻りか・・・。と思ったのもつかの間、教団の小学校校舎だった建物に「大物テナント」が入ることになりました。前年の昭和11年4月1日に発足したばかりの布施市が庁舎として賃借(後に買い取り)する事になったのです。市の発足当時は荒川にあった旧の布施町役場を仮の市庁舎として使用していましたが、これが手狭になったため昭和12年12月から鉄筋3階建の元小学校校舎を正式な新庁舎としました。
 その後は昭和14年10月に布施簡易保険健康相談所(今の市立西保健センター)が、昭和15年には布施郵便局が旧ひとのみち教団跡地に移転して来ました。こうして現在の「お役所どころ」の街並みがすこしづつ形づくられてきました。
 昭和12年に営業休止となった「人ノ道」駅のほうも、翌13年には営業を再開します。しかし、肝心のひとのみち教団がいなくなってしまいましたので駅名もこのままでは都合が悪いと言うことで名前を変えることになりました。当初は「市役所前」という駅名も案として上がっていたそうですが、地元の地名をとって「永和」駅と命名されました。昭和13年2月1日のことでした。
 その後戦中戦後にかけて、税務署、裁判所、公会堂、図書館などなどの施設が駅前に集中し「布施の丸ノ内」と呼ばれる(呼ばれてないか)繁栄期をむかえます。
 では、お後の用意もよろしいようですのでこの辺で・・・、