平和への方策(1)

 「交流の広場」にいただいたご意見へのお返事をページにしました。

「-武力で平和が守れますか?- 引用
  2001/8/26 (日) 00:27:24 - もっと歴史の勉強を - <メール送信> - 229.147.104.203.livedoor.com [203.104.147.229] - Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 5.01; Windows 98) - No.998753245
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と ありましたが。ムリがある問いかけですね。正しくは武力だけで平和が守れますか?
とすべきです。ナチスドイツを倒したのはソ連ですが、別に共産主義の高邁なる思想がそうさせたのではありません。ソ連の武力が倒したのです。膨大な出血を伴いつつも。現代の戦争は犠牲損害が絶大になりがちですから、戦争を回避するために最大限の努力をさくべし!!と思うのはごもっともですが、だからといってウソをいってはなりませんよ。世の中に暴力が満ちているというのは確かにあまり面白くないことですが、それが現実なのです、好き嫌いは別として目をそらしてはいけません。あなたの家族が暴漢に襲われたらどうなさるんですか?あなたは博愛の精神を説いて説得なさいますか?暴力に訴えてでも助けようとすると私は思いますが。それとも警察を呼ぶ?警察の暴力をたよるかもしれませんね。武力抜きで平和を守るなんてのはそれこそ妄想でしょう。」


 ご意見ありがとうございます。平和とは願うだけではなく、現実問題としてその方策を考えなけば守れないものだと思いますので、このコーナーを始めいろんなところで多くの人が平和への方策を議論しあうことが大切だと思います。

 そこで、私の見解をご指摘の点に沿って述べますと。
第1点は歴史の流れの見方があると思います。
 ソ連がナチスドイツに勝利した原因には強大な軍備とそれを支える生産力があったのは事実です。とりわけ、大量生産の可能な設計のT34型戦車を量産(しかも開戦前後の時期に)したことは軍事評論家が高く評価する点です。また、それ以前のナチスの軍事行動に関し1940年4月当時のスイスとノルウェーの軍備の差を見ると抑止力としての軍事力の意味が当時はいかに大きかったがわかります。すなわち、兵員でスイス18万人−ノルウェー1万3,000人。航空機スイス240機(新式120機・旧式120機)−ノルウェー旧式のみ80機。しかも、スイスの新式機の中にはドイツから輸入した最新鋭のメッサーシュミットまでが配備されていました。一方が攻めにくい割にメリットのない山岳地であり、片方は長い海岸線に良港を多く持つという戦略上のメリットがあることを差し引いても、ドイツがスイスではなくノルウェー侵攻を決定した背景の一つにこうした軍事力の差があったことは見逃せません。
 その点では「もっと歴史の勉強を」さんのおっしゃる通りであると思いますし異論はありません。

 私が問題としたいのは、ページで提起させていただいているように「軍事力=抑止力論」が正しいとの前提に立って、現実に「どれだけの軍事力があれば安全なのか」ということなのです。
 隣接する国の片方が相手方より軍事的に優位に立ったとたん、もう一方の国にとってそれは「脅威」になります。これでは国民として安心していられないということで相手国に負けないように軍事力を強化しますと今度は相手方にとってそれが「脅威」となります。「一定の軍事力」といいながら、誰もその程度について明確な答えを出しません。なぜなら、このようにして「一定の軍事力」がシーソーゲームのように膨れ上がっていくからです。
 人類はこのような際限のない軍事増強競争をする以外に自国の平和を守るすべを持てないのでしょうか。
 安心の鍵は実は軍事力ではなく国際的な平和環境にあると思うのです。
 その意味では19世紀から20世紀の帝国主義戦争の「切り取り自由」な時代と現代の国際環境は大きく異なっています。21世紀の平和への方策は「国際緊張をいかにして緩和するか」にかかっているように思います。

 そこで、今や世界第2位といわれる日本の軍事力が国際的な平和環境の中でどのような役割を果たしているのかを客観的に見る必要があります。ドイツ、フランスなどの西欧諸国も署名しているジュネーブ条約追加第一議定書にアメリカと共に署名をしていない日本を外国の目から見てみる必要があります。日本の軍事力は防御のための正当なものだとの論理は日本以外では通用しません。外国から見れば脅威なのですから。仮に日本の軍事関係者が専守防衛に徹していたとしても、暴力から身を守るための防御が相手方には暴力に映ることがあるということです。
 結果として軍事力に頼って平和を維持するという方法が、際限ない軍拡競争を続けながら、国際緊張を高めていくことにつながると思うのです。

 もっとも「軍事力無き防衛」論もまだ段階として未熟です。これから世界中の多くの人の英知を結集しなければならない重要な問題です。その一例としてご紹介した「無防備地域宣言」もありますが、これが完璧な切り札だとは思っていません。ただ、問題は自分がどの方向に向かうところに身を置いて平和を希求するかというスタンスにあるのではないでしょうか。私はたとえ「妄想」と言われても、この方向で平和を希求していきたいと考えています。
 
 私は「今の日本人は平和ボケしている」との説には賛成です。平和は意識しないで、あるいは努力しないで守れるものではありません。すべての国民が平和を守るためにどれだけの日常の努力をしているのかを考えると日本人はまさに平和ボケしているといわなければなりません。
 東南アジアを始め世界の国々の山林を伐採している日本を外国はどう見ているのでしょうか。外国の文化に触れ相互理解の近道となるはずの海外旅行でブランド商品を買いあさる日本人をあるいは買春ツアーに殺到する日本人を外国人はどう見ているのでしょうか。
 一例ですが、こうしたことに積極的に目を向けることが国際的な信頼を得る道であり、私達国民レベルで努力できることではないかと考えます。

 つぎに後段の暴漢論についてはこのように考えます。
 外国を暴漢にたとえる比喩は分かりやすい点もありながら、少し質的に違う点があります。
 外国は、日常生活に例えれば、名も素性もわからない暴漢ではなく、隣人なのです。暴漢が外見上の識別も暴行の予想もできないのに対し、隣人は互いに分かり合えるという可能性を持っています。また、暴漢による暴行が突発的であるのに対し、外国の侵略は政治の延長線上としてかなり長期間のスパンで予測することができますし、その間に未然に防ぐ方策もとれます。そうした意味で、暴漢に対する抵抗と国際問題を同様に語ることはできませんが、人間の尊厳を守るというきわめて本質的な部分として、また、国際平和の考え方のベースとして私の暴漢対策論を合わせて述べます。
 結論から言うと自分や家族や友人が暴漢に襲われたら私は躊躇なく闘います。
 しかしいつあるかわからない暴漢から身を守るため、ナイフやピストルを携帯しません。また家にライフル銃や機関銃をおくこともありません。(日本人ならこれが当然でしょうが・・・)
 暴力と軍事力は同一には評せないと述べましたが、一つの卑近な比喩として言えば、暴漢に襲われる危険性をまず予防します。私のような議員家業では、時として脅迫めいた電話や手紙をいただくことがあります。特に、前市長退陣の論陣を張っていた頃は携帯にも「殺すぞ」なんて電話が何度か入りました。この時期は道を歩いていてもかなり緊張していました。
 「君子危うきに近寄らず」の格言通り、夜道や人通りのないところを一人で歩かない、隙を見せない、相手を威嚇するようなあるいはそのような誤解を抱かせる行動をしない、などなど。
 私どもに相談に来られる方の中で暴力事件に巻き込まれている人には、そうした予防策にかけている人が多いように思います。
 幼少から武道をしていた習慣かもしれませんが、道を歩いていて不審な人物が目に入ると相手の不意の攻撃とこちらの防御について簡単なシュミレーションを頭に描きます。そんなときでもいかに逃げるかを第一に考えます。家にいる場合でも「いきなり暴漢が侵入してきたらここで防いで時間を稼ぎ、その間に警察に電話して」ということはシュミレーションしています。
 警察の暴力に頼るものは軍事力を認めなければならないと言うのは論理的飛躍だと思います。
 私はキリストのような博愛主義者でもなければガンジーのような非暴力主義者でもありません。ガンジーの徹底した非暴力主義には底知れぬ迫力を感じますがとても真似はできません。おそらく何千年か先には人類は軍事力はおろか暴力を対人関係の解決手段にするという原始的な方法や衝動から脱却できるのでしょうけれど、現代は「もっと歴史の勉強を」さんのおっしゃる通り暴力に満ちあふれた社会です。
 しかし、これとて暴漢から身を守るための銃社会のアメリカで、護身武装が誤想防衛や過剰防衛を引き起こしたり、新たな暴力を生み出しているという現実を見なければなりません。この点については武装問題と合い通ずるところがあるようです。

 
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